2009年08月15日

530.終戦から64年を考える

64回目の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれました。
天皇、皇后両陛下のご臨席のもと、戦没者の遺族ら計約7200人が参列しました。

戦没者は約310万人にのぼり、参列する遺族の数は、高齢化で年々減少し、
世代交代も進んでいます。

日本が太平洋戦争を仕掛けた時は、軍国主義の時代で、国民は言論統制をされ、
一般国民は、戦争に関して、率直な意見を言えなかったようです。

政治家と官僚が戦争を推し進め、最後には、国民総出動などと言われていたことが、
TVで報道されて知りました。

終戦の1年前には、日本の敗戦が濃厚となり、米国から繰り返し戦争終結の、
決断を下すよう勧告されていたようです。
それを、無視して多くの国民を犠牲にした張本人は、
当時の軍国主義を標榜した政治家と官僚なのです。

戦う武器も人も無くなった当時でも、国が潰れるまで無謀な戦いを続けていたのです。
2発の原爆を投下されても、なお戦うつもりでいたのですから、恐ろしいです。

ところで、最近の新聞報道で、次の記事を目にしました。
「太平洋戦争開戦直前の1941(昭和16)年9月、皇居(東京都千代田区)内に、
22カ所の防空壕が完成していたことが、朝日新聞社が宮内庁に開示を求めた資料で、
わかった。主に職員用だったとみられ、赤坂離宮(港区、現・迎賓館)にも、
14カ所造られていた。(中略)工事仕様書から、内部を厚さ約2.5pの板で囲い、
防毒幕を張った充実した構造だったことがうかがえる。」
(中略)
「さらに、同年9月に工事が完了したことを示す文書もあった。それによると、
皇居内にできた防空壕は予定より一つ多い22カ所。
地下式と横穴式の2種類で、10〜30人用と大型だった。(中略)
「工事録」には、22カ所中6カ所の工事仕様書や断面図、平面図も残っていた。
断面図によると、内部は幅約1.5m、高さ約1.6m。
木造で床に砂利を敷いて腰掛けを設け、毒ガスに備えた防毒幕も張る計画だった。
修正した記録はなく、仕様書通りに建造されたとみられる。」

要するに、太平洋戦争を仕掛けることが、分かっていたから、
官僚たちが空爆を想定して、国民には内緒で、防空壕を造っていたのです。

1941(昭和16)年末から1942年初めにかけて、京都御所(京都市上京区)内にも、
11カ所の防空壕が造られていたことが、宮内庁の保存文書でわかっています。

隣接の大宮御所や京都御苑を含めると計18カ所に及び、
職員ら関係者が退避するため、内部に防毒幕を張るなどした堅固な構造にしていました。本土空襲が始まる前から、大規模な防空壕群が完成していたのです。

官僚のやることは、すべてこのように、国民には内緒で行われるのです。
太平洋戦争のことを子どもたちに伝えていかなければならないと言われますが、
原爆のことに止まらず、当時の軍国主義に基づく、政治家や官僚組織の行動も、
伝えていかなければなりません。

「悲惨な戦争の教訓を、次の世代に継承していく」ことを言う人がいますが、
それをもたらしたものは、何であるかも伝えていかなければ、片手落ちです。

そして、現在でも、国民をないがしろにしている政治家や官僚組織のことも、
正しく伝えなければなりません。
国民のやる気の無さは、国を信頼していないからです。

世界には、北欧などから学ぶべきものがたくさんあります。
それは、国を信頼して行動している国民がいる社会のことです。
国を信頼しているから、高負担にも納得しているのです。
金が集まると、官僚組織が湯水の如く使って、平然としている国とは、大違いです。

太平洋戦争終結から64年経った今、さまざまな思いが思い浮かび、
その思いが、複雑に絡み合って謎解きをしているようです。

これからの日本をどのように変えていったら良いのか、
国の舵取りをする立場の人達は、真剣に将来の展望を国民に示すべきです。
posted by シーサン at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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